人にはそれぞれ才能があります。筋肉もりもり、がっしりとした人は農作業に向いています。
事務仕事に向いている人もいます。このように誰もが才能については平等だと思います。
各々がここに存在することに価値があるのです。だから、神様は命を与えてくれたのです。
神様は限りない御守護を与えてくださり、私たちは自分たちの才能を発揮することができるのです。
教会のスタッフの中でも様々な才能の持ち主がいます
。雅楽(日本古来の音楽)の楽器を扱う人、日本の武道を知っている人たち、
においがけが好きな人、秘書の仕事にたけている人がいます。
それぞれがそのような才能を持っているからこそ、うまくまわるのです。
大事なのはそれを人助けのために使うことです。
ひのきしんデー:介護施設にて
]]>「ひとのこゝろといふものハ ちよとにわからんもの成るぞ」(十下り目1)
とありますように他の人が考えていることは分からないのが普通でしょう?
この句の場合は「人間の心には、親神様の思召しが容易にわからない」
とある本の解釈にあります。
単純にもし他の人が何を考えているのが簡単にわかったなら
、例えば夫婦間でも喧嘩はしないはずですし、
恋人や伴侶探しに役に立つのではないでしょうか?
しかしながら、現実はそうはいきません。
人の心が理解できないだけではなく、
自分の心も、心遣いもわからない時があるのではないでしょうか?
親神様の思いが理解できるように努力しましょう。
いつ再開できるでしょうか?天理教コロンビアセミナー!!!
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1月17日、この日は私にとって生まれてから特別な日です。母の誕生日。
しかし、1995年からはまた特別な日になりました。
実家或る神戸の壊滅、阪神大震災。犠牲、破壊、大変な苦難な再生の道でしたが、
現在神戸の街はよみがえっています。
災難や災害は無い方が良いに決まっています。
何もなくて順調なのが良いのですが、そうはいかないのがこの世の中なのです。
予想出来ないことが起こってきます。それを受け止める心と姿勢が大事です。
神様のメッセージだと受け取ってもいいのですが、しかしそれは罰ではありません。
だからどんなときにも心を落ち着け、次ぎに何をすればよいかという
「心を定めること」が大事だと思います。
そして知恵と力を絞って働いて、
その苦難を乗り切れば必ず光りが見えるはずです。
出張所の「お道の畑」で収穫された大根
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この世で、自分の確信と、自信を持って人生を通りなさい、といわれます。
そうとはいっても、人生は一刻一刻に変わるのが常です。
明日に何が起こるかもさえもわからないのです。
私たちが住んでいるこの世界、絶対に間違いのない道はあるのでしょうか?
例えば誰かコロナウィルスによる疫病大流行は予想できたでしょうか?
一見、確かな人生を歩んでいるように見えますが
、実際には、慎み深く何かを手探りの人生ではないかと思うのです。
それは頼りないかもしれませんが、
偽の確信よりも慎みと手探りの人生の方が他の人に迷惑を与えることが少なく、
結局は確かな道になるのではないか、と思うのです。
コロンビア国立バージェ大学と天理大学、学術提携調印式の写真
(飯降政彦前天理大学長&イバン・ラーモス前バージェ大学長、私)
]]>世界には多くの聖地があります。フランスのルルド、ポルトガルのファッティマ、
コロンビアでもブガ(Buga)にある「奇跡のキリスト」がある大聖堂は有名です。
上記の聖地には共通項があります。それは「奇跡の場所」ということです。
一方、天理教の「ぢば」は、日本の天理市にありますが、
天理教の神殿の真ん中に位置しています。
そこは親神様がこの世・人間を創造された場所で、世界で唯一の場所です。
(出張所の西側にそびえるファラジョーネス山脈です。標高2900mあります。
この向こう側が太平洋で《ぢば》に繋がります)
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「ようようこゝまでついてきた じつのたすけハこれからや」(三下り目4)
これは「今よくやったな」ではありません。「こゝまで」が大事なのであります。
これは私たちの信仰で重要な点であると思います。
結果ではなく途中の経過や努力が大事であると教えられています。
私の空手道場「天理清水道場」には道場訓が掛けてあります。
その中に「根気良く努力すること」という項目があるのですが、
信仰だけでなく、仕事や学修や武道においてもこの点は大変重要な姿勢、継続の行動であります。
コロナウィルスによる新型肺炎の状況は引き続き警戒しなくてはなりません。
ワクチンが準備されても将来、この悪性ウイルスとは戦い続けないといけないでしょう。
とにもかくにも、諦めてはならないのです。乗り切って生きていきましょう!
親神様は、「陽気ぐらしの実現までおまえたちは、
ようよう進んで行くのが良いのだ」と仰っているのです。
コロナ前のお願い勤め
]]>「なまけもの」は中南米に生息しています。
しかし、なんという可哀そうなネーミングなんでしょう、「ナマケモノ」なんて!
なまけものは、しかし大変、環境にやさしい動物だと思います。
彼らは一生のほとんどを木の上で過ごします。動作は鈍いし、歩いたり、走ったりもしません。
一週間に一度木から降りて排泄・排尿をするそうです。
多くは食べず、木の葉っぱ食べていいます。それも少量です。彼らは新陳代謝が低い。
なまけものの生活を参考にすれば、私たち人間の生活を見直さなければならないと思います。
なんとなれば、大量な料理を食べきれないくらい作り、余らしたり、捨てたり、
得たいの知れない有毒物質を地中に埋めたり、そういう他の「生き物」に比べれば、
たとえ「なまけもの」と呼ばれても、彼らは慎みと感謝の実践者ではないか、と思います。
個人的にはその名前、「なまけもの」を変えたくて仕方がありません、なんて呼びましょうか?
「まじめ君」「慎みちゃん」?
ボゴタで行われた「諸宗教の祈り」
]]>強制隔離政策は融和されたのにも関わらず、コロナビールスの感染者は減らず、
引き続けて現れています。この得体の知れない物体は、法令や規則には関係無く、
未だ、世界中のそこらへんや通りに存在しているのです。
従って私たち人間は、ウイルスにより発生した世界的流行に対して、
バイオセキュリティ(防疫対策)など可能の限り予防しなければならないのです。
ある諺に「風の方向は変えることはできない。私はマスト(船の)を(風に)合わせるだけだ」
というのがあります。
人生においてはコントロールできない事がたくさんあります。
「マストを合わせるだけ」というのは辛抱も入っているのではないかと思います。
別の諺には「忍耐があれば天国へ行ける」とあります。
お道の教えでは、天国は正にこの世にあり今現在なのです。
過去や未来ではないのです、私たち自身が救け合い精神をもって今を楽しみ、
現在の「風」にマストを合わせることが必要なのかもしれません。
雅楽クラブ「雅」
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「ひとのこゝろといふものハ ちよとにわからんもの成るぞ」
(十下り目1)
とありますように他の人が考えていることは分からないのが普通でしょう?
もし他の人が何を考えているのが簡単にわかったなら、
例えば夫婦間でも喧嘩はしないはずですし、
恋人や伴侶探しに役に立つのではないでしょうか?
しかしながら、現実はそうはいきません。人の心が理解できないだけではなく、
自分の心も、心遣いもわからない時があるのではないでしょうか?
親神様の思いに添うことをお勧めします。
ボゴタ「イルミネーション布教所の仲間達」
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次ぎのように教えられています。
「この道は、人間心でいける道やない。天然自然に成り立つ道や。」(教祖逸話編17)
例えば、水は高い所から低い所へ流れます。その逆は決して起こりません。
広義に解釈しますと人間関係にも同じ事が言えると思うのです。
親切な、善良な、慎みがあって、謙虚で、寛大な人は低い姿勢の人、頭が低い人と考えられます。
その反対に、うぬぼれた人、高慢な人、虚栄心の強い人は高い心を持っていると思います。
一般に頭の低い人が好まれますし友だちにもしたいですね。
教祖も
「人が好くから神も好くのやで」(逸話編87)
と仰せられています。
そして寛大で広い心の人や陽気な人のところに人々は集まります。
自惚れた人としゃべりたくないですよね。
またこのように神様の御守護も慎みと親切な心でより頂くことができると思います。
まさしくこれが自然の法則ではないでしょうか。
2020年3月の「コロナウィルス終息願い勤め」
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コロンビアのブガ市にある大聖堂(正面上、奇跡のキリストの聖地)
みかぐらうたに、「ようようこゝまでついてきた じつのたすけハこれからや」
(三下り目4)とあります。これは「今よくやりました」ではありません。
「こゝまでついてきた」が強調されているのではないでしょうか。
この点は私たちの信仰で重要な点であると思います。
結果ではなく途中の経過や努力が大事であると教えられています。
私の空手道場「天理清水道場」には道場訓が掛けてあります。
その中に「根気良く努力すること」という項目があるのですが、信仰だけでなく、
仕事や学修や武道においてもこの点は大変重要な姿勢、継続の行動であります。
コロンビアを代表する空手国際審判の仲間
]]>暑い日、水一杯が本当に有り難いと感じます。水の価値が分かる瞬間です。
熱があって、しんどくて横になっている時もまた健康の有り難さが分かります。
同様に経済的な苦労を経験しなければ、お金の有り難さ・価値は分からないものです。
失敗は成功の父という表現があります。成功するには失敗することも必要です。
うまくいかなかったり失敗したりという経験をしなければ、
成功の喜びは感じられないでしょう。
いろんな状況やマイナスの事柄が起こった時でさえも喜べる人間になるには、
数々の困難や問題を経験する必要がありますし、その方が人の心の痛みがわかるのではないでしょうか?
それにプラス、辛抱と同じように、「待つ」姿勢も大切です。順風が吹いてくるまで、、、
出張所「お道の畑」大根収穫
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私の師匠(空手)はホントに質素な人物です。豪華や贅沢モノは嫌いで、
いつもシンプルなモノを好みます。
しかし、それとは反対に社会層によって高慢や尊大になる人がいます。
それか地位が高いか権力を持った人も高慢になりがちです。これは傾向であり、
もちろん当然ながら、権力や金持ちであっても優しい心や質素な方はいます。教祖は、
『流れる水も同じこと、低い所へ落ち込め、 落ち込め。
表門構え玄関造りでは救けられん。貧乏せ、貧乏せ。』
「表門構え玄関造り」というのは豪華な家であり金持ちが住んでいるのが普通です。
つまり金持ちや支配層は貧しい人のお助けに献身をすることは難しいということです。
なぜなら、それらの人々は自分自身、経済力、政治力を信じる傾向があるからとおもいます。
物質的に貧乏になる必要はありません。
しかし経済的に不自由な人の状況を理解し人の痛みを分かる人になる方がいいと思います。
どんな状況においても慎みは保ち続けたいものです。
2012年ころのボゴタ、ホセ・アントニオ講社月次祭にて
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諺に「似た者同士」というのがあります。
似通った人が集まる傾向があるということです。
これは外形・体型を言っているのではありません。
例えば、人に責任を押しつける人は、悪い性格の人々が寄ってきます。
反対に人のことを悪く思わない人で、自分の性格を向上させるように努力する人
にはそういう良い人が集まります。
同様に、人の欠点ばかり目がつく人はその人自身も同じ欠点を持っているのです。
人の長所をいつも見ている人はその人もよく似た長所を持っているものです。
「君の友だちが誰か教えてください。貴方がどういう人か当てますよ」
名文句ではないでしょうか?
文化棟「主寝室」のひのきしん
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